昭和46年12月28日 朝の御理解
中村良一
天地書付
「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼め」
天地書付を奉唱させて頂くというか。絶えず、自分の心の中に、唱えさせて貰う。唱え言葉と致しましても、素晴らしい、いわば、功徳があると思いますね。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日で頼めというてあります。それで、例えて、申しますなら、自動車で行ってる人が、天地書付を唱えて運転をするとするなら、まず、交通事故が無いでしょうね。大難を預かっておっても、無難のおかげを受けられると思いますね。例えば、教祖様の、この天地書付をお書き下げ下さり。二代様に、これを書きためておけと仰せられ、そして、それを渡される時には、見えるところに貼っておけと仰られる。何時でも見えるところに貼っておけと。ただ、自動車の中なら、自動車の中に、天地書付を貼っておく。それだけで、おかげを受けるのですね。それを見ておる、しかも、それが唱えられておる、心の中に。これはまぁ、自動車か、交通安全とかという事だけではありませんですね。
私は、本当に金光様のご信心が、例えばあの、親鸞お尚ですね。私も、親鸞聖人様の教えの中に、ただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という、六字の妙業ですね。それで、極楽往生が出来ると言われたんですからね。それは、意味は分からなくっても、その中に込められておる、いうならば、仏様の祈りとでも申しましょうか。私は、よく分かりませんけれどもです。教祖生神金光大神の祈りがね、おかげの中に、もう結集されておる。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日で頼めいと。例えば、この内容という、どういう事かと分からなくってもです。私は、これは、親鸞が、そのような風に教えられたように、私も、そう思いますよ。それほどに、いうならば、功徳がある訳ですよね。
お小便させて頂くでもそうです。それを療養させて頂くにあたりますでもです。この天地書付を、繰り返し、繰り返し、心の中に奉唱させて頂いておる。訳は分からんでもね、絶対、おかげ頂くです。もう、自分の心の中にね。もう天地書付で一杯になるからですよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるという事がです。南無阿弥陀仏を唱えるという事が、私は、その心、身体全体に、南無阿弥陀仏で漲るから、極楽往生が出来るというたのじゃなかろうかと思います、これは。ですから、ほんなら、南無阿弥陀仏という事が、どういう事か分からんで、ただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とこう言うておる人が、まぁ多かったんじゃないでしょうかね。もうそれは、その、一字一字に、大変な深い意味があるようです。天地書付なんかも、それはもう、一字一字に、大変な意味があると思うんですよ。それは、分かっちゃならんじゃない。分かれば、また有難い、尚更ですけれど、天地書付をもう、金光様のご信心をさせて頂く者はね、一家中で唱えにゃいけんです。一心に願えと仰るのですから。一家中の者がね、一つの心になって願わにゃ駄目なんです。いわば、私一人で唱えても良いのですよ。皆さんが、一人で唱えても、私が今言う、自動車に乗らせて頂いて、運転させて貰う時に、生神金光大神天地金の神と、繰り返し、天地書付を奉唱する様な心の状態であったら、まず、交通事故から逃れるおかげを頂かれるだろうと。だろうじゃない。だと、私が、申しておる訳ですけれども。それでも、一家中の上にです、ほんなら、家内が勝手の方で、子供が学校で、お婆さんやら、お爺さんやらは、もうとにかく、それこそ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口癖のように、あの、なまんだぶの信仰の人が、口から洩れて出るように、南無阿弥陀仏を唱えるように、生神金光大神様天地金之神様とこう、願わせて頂く。願うというよりも唱えるということだと、私は思うですね。私はこの、一心に願えという所をですね。そういう一つのね、まぁ運動に似たようなものがね、金光様のご信心させて頂く者なら、家族中で、そういう運動を、いっちょ起こさにゃいかんです。お前は唱えよるかと。あんた、唱えよりなさるですかという様なもの。それはもう、金光様、金光様ち言うとは家内だけ。金光様、金光様ち言うのは親父だけ、息子だけと言ったような事ではいけんです。一家のおかげにならんです、それでは。一つの唱え言葉としても、私は、そのような事です。いわゆる、和賀心時代を作ると、まぁ合楽で言われております。そういう、私は、自分の心の中にも、または、家庭の中にも、まず、自分ところの家の中から、その運動が展開されなければいけないと思うです。私は、今日、特にこの一心に願えという所をですね。一つの心になって願えというふうに、今日は頂きました。家族中の者が、一家を挙げて、天地書付奉唱運動とでも申しましょうか。それが、そのまま、和賀心時代を作って行く原動力になるものなんです。元になる。
だから、これを、例えば、長いならば、幾つにも切ってからでも良い。生神金光大神天地金の神様一心に願えと。そしてまた、一時してから、おかげは和賀心にあり今月今日で頼めでも良い。後になっても先になっても良い。いや、それが面倒くさいなら、今月今日で頼めい、今月今日一心に生神金光大神と唱えるでも良い。その内容は、天地書付になからなければならない。しかも、それが、一家を挙げての生神金光大神にならせて貰う。どうでん、そういう運動をね、一つ起こさなければいけません、自分の心の中に。それから、自分の周囲に。まず、自分の一家中が挙げて、生神金光大神を奉唱させて貰う運動。それで、一家中がおかげを受ける。この運動を一つ、徹底して行く。そこで、まぁ唱え言葉としての徹底をですね。させて頂くと同時に、段々、信心の稽古をさせて頂くに従って、その内容が、本当に分からせて頂き、その内容が、本当に、日々の行の上に現わされてくるということになってこなければいけんのです。でないと、今度は、南無阿弥陀仏と言うただけで極楽往生が出来ると、おかげが受けられるというのに、おかげは受けてもですね。いうならば、今度は、それだけでは、神様が助かっては下さらない。だから、今日は、見やすい所からお話を頂きましたね。私共は、おかげを受けるという事が、極楽往生が出来るということも、どういうことか、私は分かりませんけれども。今、今日、私が、交通安全奈良交通安全と言うただけでも申しましたよね。生神金光大神、生神金光大神と、天地金之神様と唱えさせて頂くと言うだけで、いうなら、災難よけぐらいは、おかげが受けられるということ。けども、金光様の信心は、どこまでも、それがですね。私が、今日一日、災難がよけられましたというおかげだけではなくてです。その事が、神の助かり、神の喜びに繋がらなければならないと思う。特に、天地書付を、今度また、本当にですね。どういう意味が、その内容にあるのかということを分からせて頂くことによってです、私共が、日常生活を、信心の御教えに基づいての生活が出来るようになり。いうならば、神様を信ずるだけではなくて、神様から信じられるおかげが頂けてくるようになる。おかげだけなら、今、申します様に、その功徳が、天地書付の中にあるんだと。一つ皆さん、信じてね、いわゆる、唱え言葉の、その家族を挙げての運動をね、展開なさって頂きたい。それから、今度は、神様から信じられる信心ということになって参ります時にです。この内容が、いよいよ、分からせて頂かなければならん訳であります。
おかげは和賀心にあり。これは、なかなか難しいですね。ここで言う、おかげというのはです。和賀心ではなくっても、天地書付を奉唱しただけで、いうならば、一家が安泰、自動車の中が安全。まぁ様々なおかげが受けられる。学生が、天地書付を唱えながら勉強するならば、必ず、試験に受かるだろう。そういうおかげを受けられる。けれども、おかげは和賀心にありと仰る、このおかげというのはです。そういうおかげじゃない。いわゆる、お・か・げ・である。ひらがなで、お・か・げ・と書いてある。
秋永先生が、兄弟、お婆ちゃんと嘉朗さん、三人であの、事故に合いましたけれどもね。これで、ほんに助かられたち言うことが不思議なぐらいな、いうなら、大事故でしたけれど。あのようなおかげを頂かれました訳ですけれどね。あの時に、それに、繁雄さんところの長男の邦雄さんが、一週間ぐらい経ちましてからでしょうか、お見舞いに行きたいとこう言うのです。先生、どういうふうに言うちから、お見舞いを申し上げたら良いじゃろうかと言うて、ここでお伺いをするんです。そん時に、私は、この、お・か・げ・ということを頂いたんです。はぁ、おかげちゃ、こげな意味ばいなと思いましたね。例えば、瀕死の重体というか、そういう、ほんなら、その難儀を受けておられるところへお見舞いに行くのに、この度は、おかげを受けられましたなぁと言うことが、挨拶だと仰るんです、神様が。だから、こげん、見やすい事はない訳です。どういう、例えば、難儀な、死ぬか生きるかというほどしの事にあっても、自身としても、それを、いよいよ、簡単に見やすう、おかげを頂いて有難うございましたであり。そういう病人を見舞いに行くのにです。この度はおかげを受けられましたなぁと。それは、真意が分かり神愛が分からせて頂けるから、そのように簡単なおかげになってくる訳です。この度はもう、大変なこっでしたねぁと、いう様なこっじゃないと。この度は、大変なおかげを受けられましたなと。
それは、例えば、妊産婦に対する挨拶がです。はぁ、もうちょいとあなた、大変なこっですねち。こんなお腹、そげん大きゅうなってから、相当困りなさろうと。そして、きつありなさろうという様な風に言わんでしょうが。はぁもう、おめでたは間近ですねと言うてその、言うでしょう。そういう意味なんです、ここで言うおかげと言うのは。もう必ず、次に、良い者が生み出されることのためだから、おかげなんです。神様が、おかげ下さってある。
昨日、私は、最後の歯医者を、久富正樹さんの車でおかげ頂いて、そして帰りに、椛目の方ば、昨日道具が、(こう積み上げよりましたから、)寄らせて頂いておりましたら、ここから電話がかかってきた。(前野?)さんがお参りになっておられますから、すぐ帰って頂くようにと言うことだった。新しいご信者が一人と、みんなで三人でお参りになっておられました。新しいご信者さんご夫婦と(?)さん、三人で参っておられました。私は、いつも、この方の願いと言うものが、毎日、分かっておりますから。ははぁ、また、その事だろうとこう思うて、自動車の中でも御祈念しながら帰って来た。そしたら、ご心眼にね、吊る忍を頂きました。しのぶというのがありましょう、丸くした。夏、しだの一種ですよね。しかも、こう吊るすやつですから、吊るしのぶと言うんですね。あの吊るしのぶを、こっちに頂くんですね。吊るしのぶ。どういうことだか分らなかった。それで、帰らせて頂いて、まぁご婦人達のお話をさせて頂きましたらですね。それこそ、語るも涙、聞くも涙というようなお話でした。もう聞きながら、本当に、あの人形で言うならば、本当に、私も一緒に貰い泣きするごたるお話でした。世の中には、様々な難儀がありますね。これが、おかげになれば何にも要らんと言われて泣かれました。人間な、本当に苦しい時には、そんなにあるですね。病人が、ここに助けて貰うなら、もう、地位も名誉も金も要らんと、助けてさえ貰うならとこう。お金がなくて困っておる人はです。ここに、幾ら幾らの金さえあれば、もう何も要らん。それこそ、病気しとったっちゃかんまんという様な気持すら起こってくる訳なんですよね。そういう願いでした。それで、私はね、自動車の中で頂いて来たことをお話したんですよ、こうこうでしたと。さぁ、辛抱がし難かろうけれども、そこを一つ辛抱してください。これがね、信心がなし、合楽に関係がなしに辛抱する、辛抱する。なるほど、辛抱強い人がありますから、それは、大変なことを辛抱する人がありますけれども。そういう辛抱ばっかりしよると、年を取るに従って、頑固爺になったり、こんにゃく婆になったりする訳ですよ。はぁ、私どんが若ぇ時には、こげな辛抱ばしてきたつよち。あんたどんば育つる時には、こうじゃったよと言うて、自分が辛抱したことを、恩着せがましゅう言うようになるです、必ず、信心が無いと。ところが、私は、有難いことはですね。神様が、それこそ、吊り下げられとるように、私に忍べと言うのですから。いうなら、踏んだり蹴ったりち言うとこなんですよ。けども、さぁ、そこを辛抱するのが、神様にすがって辛抱するのぞと、神様が言うて下さる時にはですね。もう、絶対、辛抱させなさる時にはですね、辛抱しろと仰る時にはですね。もう後ろの方には、ちゃっと、(?)持っちゃっとです、神様は。おかげは持ってある時です。だから、そこば、辛抱しきれなかったり、辛抱のし振りが悪いから、神様が持ってござるとば、いつまでも頂き切らんとだと、昨日、私は思いました。そしたらもう、本当に、それこそ、おかげで助かったといったような顔をなさいましたですね。辛抱しなさいて、けども、辛抱しなさい、辛抱しなさいと。普通で言うなら、辛抱せぇ、辛抱せぇで、いうならば、辛抱力を作るだけでしょうけれども。神様が、辛抱せぇと仰る時には、辛抱させた後には、ちゃんと、辛抱しなければ与えられないものを、ちゃんと持ってござる。おかげの頂けれる時なんだ。けれども、お互いが、どうしてこげん、難儀せんならんだろうか。どうしてこういう事になるだろうかと言うて、辛抱しながら、不平不足を言うような辛抱振りではです、何時までたってもおかげにならんです。そういう辛抱しぬかせて頂くからです。どういう難儀なところを通っても通っても、通るたんべんに、いわゆる、和賀心が生まれてくる訳です。ほんに有難い事じゃな、勿体ない事じゃなという事になってくる。しかもその、例えば、血の涙の出る様な、踏んだり蹴ったりされる様な、それこそ、吊り下げられとる上に、また辛抱せんなんという様な時でもです。もう神様が、そこに、おかげを下さろうとしておる、それが寸前であるということが分かる時にです。そういう、難儀を感ずる時でも、それを難儀と感じん、それを神愛と感じん、有難い勿体ないとして、受けていけれる心が和賀心なんです。だから、その事もおかげですから、実は、簡単なおかげなんです。だから、おかげを、今日、私はね、おかげは和賀心にありというおかげがです。和賀心で受けられるほどしのおかげ。それは、ほんなら、瀕死の重体という様な難儀な、いわゆる、交通事故なら交通事故に合われておられる時にです。いわゆる、おかげ頂きましたであり、おかげ頂きなさったですねぇという様に、見やすい。ほんなら、昨日の、それこそ、吊り下げられた上に、その上、また忍べと言われる様な感じだけれどもです。それは、おかげだと言うこと。
私は、今日、本当に思いますのにね。皆さんの場合なんかは、辛抱しよるばってん、辛抱しぬき切らんですね。もう、ここだけはいっちょ、腹立てさせてくださいちいう。神様にお願いしながら腹立てる。こがん事は辛抱しますけれども、ここだけは、もう辛抱が出来ませんという様な事。後ろで持っとると、もうやられん、それじゃ。それを、本当におかげと分かるとです。いわゆる、真に神愛が分かると、それが有難く辛抱が出来る。だから、私共がね、信心させて頂いて、心が、やはり豊かに和らいで、喜んでおれれる心というものを頂いておるかのようにあるけれどもです。例えば、そのような、踏んだり蹴ったりという様な時でも、まぁいうなら、大難にあったと、その者は言う中にあってもです。それを、簡単に、おかげとして受けれる心なんです。その心が和賀心。そういう事になって参ります時、どういう事になりましょうか。唱え言葉に、天地書付を唱えただけでも、おかげは受けられる。だから、一つ、そういう運動を、私だけではない、一家中に、いわば、広めて行こう。そして、私一家が、その事によって、おかげを受けたなら、それを、いわば、周囲の方達に広めて行こうと言うのが、天地書付奉唱運動という事になるのです。いうならば、和賀心時代を作ると言うことになってくる訳であります。そして、天地書付の本当の真理というものを、段々、分からせて頂くようになると。もう、唱え言葉だけではない、全てがおかげと、見やすうおかげと言えれる心。おかげを受けましたと言い、一人の人は、どうして、こんな難儀なことが起こるじゃろうかと受けておる。おかげ、おかげというのは、そんなに簡単に言われる内容を持ったおかげでなからなければならないということ。自分に都合のよい事だけが、ここで言うおかげは、そういうおかげじゃない。おかげは和賀心にあり。しかもね、今月今日で頼めいと。今月今日でということは、今月今日只今で願えと言うことなんだ。そこで、日頃、頂いておる御教えを、思うてみますとですたい。皆さん、この辺が、はっきりしてくるだろうと思いますね。なぜ、成り行きを大切にしなければならないか。なぜ、御事柄なのかと。そういうことが、よくよく、祓えりをさせて頂いて、初めて、それこそ、ひらがなで書いてあるようにです。見やすう、お・か・げ・と言えれる事になって参ります、すべての事が。そういう、すべての事をです、自分に都合のよか時におかげというのではなくてです。普通から言うたら、どうしてああいうことがと、あの様なことがと言うような場合であってもです。それを、本当におかげを頂いてという、その心が和賀心だと、今日は聞いて頂いたんですね。だからもう、こりゃもう、本当に、和賀心というものが崩れない訳です。信心のない人やら、浅い人やらはです。難儀と感じておる、その難儀をです。おかげと受けておるのですから。そういう、私は、心が、和賀心。そういう和賀心をです、ほんなら、いつも、何時もです、今月今日只今、何時も何時も、そういう心を持ち続けさせて頂けれる事を願うのです。だから、御神徳を頂く訳です。だから、神様のご信用を頂く訳です。もう、この氏子には、何を試しても、何をやっても、この人が好かんものをやっても有難いと言うて受ける。もうお前は、試しようがないと言うほどしのですね。教祖様が、天地金乃神様から、お頂きになられたように、私はこら、教祖様がね、独壇場とか、専売特許じゃないと思うです。教祖様の教えて下さる信心を頂くなら、私共も、やはり、そういうおかげの頂けれる事を願いとした、信心でなからにゃいかんと思うです。和賀心が神に向こうて行くという信心とは、そういうことだと思うんです。
今日は、天地書付奉唱運動と、心の中に、家庭の中に、お参りはせん、信心のない、例えば、子供やら、主人やら、家内やらとでもです。これだけは、一つ唱えてくれ、参らんでんよかけん。でないと、一家の助かりにならん、本当の話が。また、唱えさせて頂いておるとです、有難いおかげが受けられる、ということを、まぁ前半に申しましたね。そして、後半を、いわゆる、おかげは和賀心、和賀心とはということを申しました。自分が、なーにも、平和もなきに、本当に、和らいで喜んで、私のごたる幸せな者があるじゃろうか。もう私は、日本一幸せな者だと、よくみなさんが言うけれど。そういう時に、言うなら、誰でん、和賀心になれる。結構毛だらけの時には、たいがいの者が和賀心である。けれども、それとは反対の時でもです。それこそ、簡単にそれを、おかげと言えれる心。そういう心が、和賀心なんです。しかも、その心がです、たゆまないように、今月今日で頼んで行くということ。一心に願えと言う事は。ただ、私が、一心に願うだけではなくて、家族中の者が、一心なって願うと言うこと。合楽教会一団となって、例えば、御造営にあたるといった様な事を申しますがです。教会、信者の全部がです。一つの心になって願うと言うことなんです。その一心に願えと言うこと。ただ、おかげは和賀心にありという、本当の意味においての和賀心ですね、を聞いて頂きました。どうぞ。